浪人日記 -川腰和徳-

2001年3月24日、24歳のときに俺は死んだ…。

高校を卒業して1年間、地元の鳥取県でフリーターをしていた。車がまったく走ることのない山奥の中、道路整備をする作業員を横目に、朝の9時から、夕方の5時まで真夏のアスファルトの上でただひたすら、ボーッと立ち続ける警備アルバイトの俺がいた。青空を見上げながら自分の今に空しさを感じていた。

俺は一生、車の通らない道の交通警備をしながらこのまま年をとって生きていくのだろうか。挨拶以外は朝から晩まで黙っている毎日、考える時間は腐るほどあった。

人間の世界には暗黙の階級が存在していると思う、貧富の差、能力の差、さまざまな階級が存在して人は同じ階級で群れになる。髪を金髪に染め、全身真っ赤な服を着て、夜中じゅう車を走らせ、地元の仲間とつるむ日々、社会から必要とされていない人間の集団である。どうせ二十歳ぐらいまでフリーターを続けて、その後トラックの運転手か土木作業員、そんな将来になるのは目に見えていたし、母親もそれを望んでいた。

19歳の田舎の青年達は何も知らなかった。自分だけには才能があって、自分だけは成功するんだとゆう変な自信があった、俺もその中のひとりだった。

東京藝術大学の名前を知ったのは高3の秋だった。国立で学費も安い、実技重視の試験内容、お金もなく勉強もできない俺の行くべき学校であると勝手に決めつけ、見切り発車で大学進学のための受験勉強の日々が始まった。鳥取県には美術の予備校がないので、学校の美術部で顧問の先生に指導を受けるか町の絵画教室に通う以外デッサンを勉強する方法はなかった。冬休みの直前に東京の予備校がわざわざ鳥取まで来て出張講評会を開くとゆうので、先生に参加を勧められた。あまり人から作品についてとやかく言われるのが好きではない俺は一度は参加を断ったのだが先生に説得され、いやいやながら参加することを決意した。県の美術部学生が全員集合して行われる講習会であり、その中で行われたデッサンコンクールで1位になってしまい、講師の先生から芸大受験を勧められ、思い込みが激しく、自信過剰な俺は、翌日美術部顧問の先生に会いに行き「芸大一本で受験します」と大きな声で決意表明した、その日から長い浪人生活が始まった。

2浪目から東京の叔母の家に居候させてもらいながらタウンページで見つけた大塚の美術予備校に通うことにした。田舎でアルバイトをして貯めたお金で学費を払って朝は学校、夜は家の近くにある居酒屋で深夜2時までアルバイト。貯金も少しずつ貯まってきたので叔母の紹介で家賃2万円の東京ではあり得ない安さのアパートを紹介してもらった。築50年のアパートで外観は廃墟そのもの、黄土色の土壁でたくさんの亀裂がある。大家さんに中を見せてもらおうと、ドアの鍵を開けるが、ドアが開かないほど家が変形している有り様。1階で2LDK、広さに驚いた。しかし畳は斜めに変形し、台所にが裸電球が1つぶらぶら。トイレはドリフのコントでしか見たことのない天井から鎖状のひもがぶらぶら下がっていて、用を足した後、ひもを下に引っぱると天井に設置されている貯水槽から大量の水が勢い良く便器に流れてくるとゆう珍しいものだった。格安の家賃と部屋の広さに心引かれて借りることにした。芸大に受かるまではどんな努力も惜しまない。これ以上の努力はないと言うほど努力した。芸大の試験の日、今年1年間の努力が今日1日のためにがんばって来たのだと考えるたびに緊張してしまい、思い通りの絵が描けず失敗に終った。誰が言ったか知らないが努力すれば報われるなんて言葉は嘘だと信じた、本当に悔しかった、現実の容赦ない壁にぶち当たった瞬間だった。浪人生には社会からの疎外感が付きまとう、周りの人達がどんどんと先に進んで行く、俺はずっと足踏み状態。追い越されても何もできない俺。孤独感と焦燥感、劣等感。いつもイライラしていた、刑務所に入れられた囚人だった。大学に入ることしかそのときの俺には目標がなく、もしあきらめてしまえば何もなくなってしまう。何もなくなったら生きてる意味がない、もう1年だけがんばってそれでだめなら、あきらめる。ギリギリまで追いつめられていた、その頃、親父が経営していたスナックがつぶれる。悪いことはどうしてあんなに重なるのだろうか、母親に田舎に戻るように説得されたがあと1年だけどうしてもがんばらせてほしいと何度も頭を下げた。親戚や友達からいろいろと言われたが、俺は自分だけを信じて前だけを見てバカみたいに進み続けた。

4回目の東京藝術大学合格発表、上野の公園口改札を出て西洋美術館を通り過ぎ、上野動物園を正面に歩くと3月の冷たい風が頬をなでる。緊張の瞬間、芸大の正門を曲がると合格掲示板が見える、正門前で深呼吸を一発入れ、角を曲がってゆっくりと近づく。合格掲示板を凝視するが番号がない、もう一度掲示板を見直すがやっぱり番号がない…、落ちた。何がおきているのかわからない、目の前が真っ白になったとかよく人はゆうが、俺は何も感じなかった、それよりも先に親、親戚の顔が頭を過った。予備校の先生、応援してくれたバイト先の店長に会わす顔がない、このまま消えてなくなりたい。

2001年3月24日、合格発表を見終わった俺は高い所にいた。このまま飛び降りたら死ぬだろうな、などと考えながら、ずっとその場所にいた。夕方まで考えたあげく、俺はそこから飛び下りた。そして死んだ。アスファルトで頭部を打ち、頭がい骨が砕けた。たまたま通りかかった散歩中の主婦の通報で救急車が到着、即死と診断され、上野から一番近い病院に搬送された。予備校の学生証から身元が分かり、お世話になった予備校の学長と先生が駆け付けてくれる。学長は死んだ俺との面会で本人と確認した。予備校からの連絡で東京に住む叔母に連絡が行く、叔母から母親、姉ちゃん、親父、婆ちゃん、叔父ちゃん。

次の日の朝一の飛行機で母親と姉ちゃんが駆け付けてくれた。母ちゃんは泣きながら俺の胸元に泣き崩れなぜ死んだのかと問いかける。生きていてくれさえすればそれでよかったのにと俺の白い掛け布団を握りしめながら泣き続ける。親父も駆け付けた、俺の顔を確認して声にならない声で、泣きはじめた。俺は自分の死を後悔した。もう一度生きたいと思った。親を悲しませるようなことはしてはいけない、生きよう、生きていこう。目をつぶりながら俺は高いところでずっと考えていた日が暮れるまでずっと考えていた。

次の日からまた新しい人生が始まった。

Posted Monday, November 2nd, at 3:10 PM (∞).

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